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走れ!バカップル列車
第86号 比叡山



   二

 二○一九年十一月二十三日、みつこさんと私は東京を7時13分に出発する「のぞみ155号」に乗り込んだ。
 切符はひと月前に買っておいた。朝七時台の新幹線ならどの列車でも良かった。むしろもう少し遅めの列車で行くつもりでいた。ところが駅に行って指定券券売機を操作したら、臨時列車「のぞみ155号」に「喫煙席」があるという表示がでていたので、ついそのボタンを押してしまったのである。
 たばこを吸うためではない。切符の席は六号車だから禁煙車である。鉄道おたくの知識に過ぎないが、喫煙席があるというのは車輌の形式が700系で運転されるという意味なのだ。一九九九年にデビューした700系も新型で全車禁煙車のN700系などに追われ、引退が近いと噂されている。とくに愛着がある車輌ではないが、これが最後だと思って乗っておきたかった。みつこさんに切符を見せたら、「あれ? ちょっと早いんだね」と言われ、一瞬ドキッとしたが「うん、あの、臨時の方が空いてたから」と咄嗟に答えておいた。臨時列車の方が定期列車より空いているというのは嘘ではない。
 売店で買った駅弁を発車前から食べはじめるのはいつものことだ。みつこさんは「八ヶ岳高原の鶏めし」という弁当を選んだ。照り焼きの鶏肉がおいしそうである。私はいつもの「チキン弁当」。食べているうちに発車して、富士山を追いかけ、居眠りからの寝ぼけ眼で伊吹山を眺めて、定刻9時31分京都に着いた。
 700系「のぞみ」に乗るのもこれが最後だろうと思い、階段を降りる前に一度だけ振り返ってみた。実際、このときが最後だった。700系は二○二○年二月二十九日の営業運転をもって東海道から姿を消した。
 京都から湖西線の電車に乗り換えた。全身が緑に塗られた国鉄型電車だった。ひと駅乗って山科で下車。JR駅の向かいの京阪山科から京阪京津(けいしん)線に乗る。
 時刻表では間に合うはずの10時10分発の電車は、ちんたらしているうちに行ってしまった。次の電車は10時30分、しかたないのでみつこさんとベンチに座ってぼんやり待つ。空はよく晴れていてホームはとても日当たりがよい。厚着のせいで汗ばむほどだ。
 電車が来た。京津線は他の鉄道にはないスリルが味わえる私の大好きな路線だ。五年ほど前にバカップル列車も走らせている(第60号「京阪電車大津線」)。
 とにかく逢坂越えがすごい。追分を過ぎたあたりから上り坂が急になり、全長二五○メートルの逢坂山トンネルを越えれば、最小半径四○メートルの急カーブ、最大勾配六一パーミル(‰)の急坂が連続し、四両編成の電車が上下左右、大蛇のようにうねり狂う。上栄町でようやく平地に出るものの、こんどは大津市中心街の県道558号線(旧・国道161号線)のまさに道路上を乗用車やバイクに混じって六○○メートルほど走り抜け、仕上げに「浜大津駅前」の交差点を「右折」して終点びわこ浜大津に到着する。この劇的変化のありようはジェットコースターといっても過言ではない。

 びわこ浜大津駅は以前はふつうに「浜大津」という駅名だったが、色気を出したのか、いつのまにか現在の駅名に変更されている。「琵琶湖」ではなく「びわこ」となっているのがなんとなくいやらしい。ここで石山坂本線に乗り換え。こちらも以前のバカップル列車で走覇した。琵琶湖に面した平地を少しずつ坂を登って終点坂本比叡山口に着く。京阪山科から三十二分、11時02分の到着だった。
 駅を出た正面の道を左へ歩く。目の前には緑色濃い比叡山が立ちはだかる。まっすぐとした広い道だが山麓らしくけっこうな坂道である。きれいな紅葉だの、小さな祠だの、お地蔵さんだのみつこさんとわいわい見ながら歩いていたら思いのほか時間が経ってしまった。二十分ほど歩いてようやく坂本ケーブルの山麓側の駅、ケーブル坂本に着いた。白いモダンな駅舎は国の登録有形文化財だそうだ。
 ケーブル延暦寺までの片道切符を二枚買う。博物館のチケットみたいな券面に「長さ日本一!」とある。路線距離二・○キロはケーブルカーとしては日本最長で、標高差は四八四メートルにもなる。
 次のケーブルカーは11時30分発だが、満員で乗れないとのこと。紅葉シーズンはやはり比叡山も混んでいる。力なく行列に並ぶ。次の臨時便11時43分発に乗れた。傾斜に合わせた平行四辺形の車輌は角張ったデザインで、色も赤と緑に塗り分けられてハイカラだ。行列がそのまま乗り込んだから、車内は混雑している。私は前を見ようと乗務員席の後ろに立ったが、みつこさんは声をかける間もなく、どんどん先に行ってしまい姿が見えなくなった。戦後の混乱期などで互いに行方不明になってしまった話は幼い頃からよく聞かされてきたが、こんな些細なことがひょっとしたら今生の別れになるのかもしれない。
 まあ、みつこさんは車内のどこかにいるはずなので、かまわず前方を見ることにする。前方の窓から見えるレールは急坂というより壁である。本当にこんなところ、登れるのだろうか。11時45分、黒光りするケーブルが満員の車輌を力強く引っ張りはじめた。線路の左右は多くは常緑樹で、緑のトンネルを進むようである。石積みのトンネルやガーター橋もあって意外に変化に富んでいる。
 乗務員席には制服を着たおじいさんが座って前方を注視している。ケーブルカーだから運転は必要ないが、ところどころで指差喚呼などするから、本当に運転しているみたいだ。途中に苔むした小さな駅が二つあって、下の方がほうらい丘、上の方がもたて山というらしい。停車はしなかった。その真ん中で下りのケーブルカーとすれ違った。麓から十分ほど走って11時56分ごろケーブル延暦寺に着いた。こちらの駅舎は黄色くて同じく国の登録有形文化財らしい。みつこさんとも無事再会できて、駅前広場から琵琶湖を見下ろす。空気も澄んでいてとても眺めが良い。琵琶湖大橋の向こう遙か彼方には伊吹山も見えた。



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