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| 第86号 比叡山 |
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新型コロナウィルス感染症に罹患されたみなさま 感染拡大により生活に影響が出てしまったみなさまに心よりお見舞い申し上げます 一 秋の京都に出かけるようになって四度目になる。 なんだか胡散臭い中年夫婦の様相だが、そもそものきっかけはみつこさんが京都市動物園に行きたいと言い出したことにある。実際に行ってみて思いのほか楽しかったこと、もっときれいな紅葉が見たくなったこと、記念写真の再撮影をしたかったことなどいろいろあって、つい四回も行ってしまった。ただそれだけのことだ。 バカップル列車は、列車に乗るのがその使命だから必ずなにかしらの列車に乗る。一回目の二○一六年は嵯峨野トロッコ列車(第79号)、二○一七年は叡山電車(第81号)に乗った。だんだんネタが尽きてくる。二○一八年は京都鉄道博物館(第84号)だ。鉄道と名がつくものの、博物館であって列車ではない。館内にSLスチーム号があるというかなり苦しい言い訳をしなければならなくなる。 そしてついに二○一九年は「比叡山」というタイトルになってしまった。もはや山である。「列車じゃない」といわれそうだが、これまた鉄道なのである。比叡山には登山のための公共交通機関がある。 滋賀県側から京都府側へ順に並べると、次の三路線だ。 比叡山鉄道比叡山鉄道線「坂本ケーブル」(ケーブル坂本〜ケーブル延暦寺) 京福電気鉄道「叡山ロープウェイ」(ロープ比叡〜比叡山頂) 京福電気鉄道鋼索線「叡山ケーブル」(ケーブル比叡〜ケーブル八瀬) いわゆるケーブルカーとロープウェイである。ふつうの鉄道ではないが、鋼索鉄道(鉄道事業)、索道(索道事業)と分類され、どちらも鉄道事業法に規定される「鉄道の一種」だ。 比叡山に行くことになったのは、NHKの「ブラタモリ」でちょうど比叡山を放送していたからである。九月下旬だったと思う。 「みちゃん」 「なに」 「十一月なんだけど……」京都へ行くことはみつこさんもわかっている。「比叡山行ってみる?」 「ああ、比叡山! いいねえ」 「ケーブルカーやロープウェイがあるからサ、いちおうバカップル列車になるし」 「そうだね。そりゃ、いい考えだ」 タモさん(ふだんから私は敬意を込めて、こう呼んでいる。本人のいないところでも「タモリ」などと呼び捨てにはしない)つながりでいえば、ずいぶん昔にテレビ朝日系の「タモリ倶楽部」で比叡山を越えるケーブルカーとロープウェイを乗りつぶそうというテーマの回があった。これはホントにひどくて(褒め言葉)、比叡山まで行くのにただの一度も寺には立ち寄らず、お参りもせず、ひたすら乗りものに乗るだけという山越えであった。 タモさんはじめ出演者たちのスケジュールの都合もあったのだと思う。わしらのバカップル列車はそれほどスケジュールも詰まってないし、せっかく近くまで行くのだから、せめて比叡山のおもなところはお参りするつもりだ。我が家は真言宗だから、高野山に行く前に比叡山に行くのが気がかりではあるが、高野山はまた次回行くことにして、今回ばかりはお許しいただこうと思う。 比叡山とは、山の名前であり、比叡山延暦寺の略称でもある。もっと略して叡山と呼ばれることもある。 山としての比叡山は、滋賀県と京都府の境をつくる標高八四八・一メートルの山であり、古くから信仰の対象となっていた。 この地に最澄が一乗止観院という寺を開基したのは、七八八(延暦七)年といわれる。その後最澄は遣唐使船で唐に渡り、帰国して天台宗を開いた。最澄没後に延暦寺と名づけられ、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮と、私でも知っている名僧たちを多く輩出している。日本仏教発展の一中心をなしたと言っていい。 延暦寺と聞いてもう一つ思い出すのが武装化である。そもそもは自衛のために僧兵を抱えたことにあったのだろう。次第にその勢力は朝廷や武家をも脅かす存在となり、平安末期には白河法皇に「かなわぬもの」(注1)と言わせるほどであった。広い境内と武力を持つ独立国のような存在は奈良の興福寺も同様で、延暦寺と合わせて「南都北嶺」(注2)と呼ばれた。 数ある政権との対立の中で、もっともセンセーショナルな事件は織田信長の焼討ちだろう(一五七一(元亀二)年)。長くなるが『信長公記』からそのくだりを引用してみる。 「九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこそ哀れたれ。(中略) 僧俗・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。(中略)高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ侯へと、声々に申し上げ侯と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり」 その壮絶な様子がわかると同時に、偉いお坊さんや僧兵だけでなく、女性や子供もこの地で生活し、数千人もの町になっていたことが読み取れる。 修行の場でもある比叡山に登山しなくても行けるケーブルカー、ロープウェイが運転を始めたのは大正と昭和を跨ぐ一時期に集中している。さまざまな人びとが先を争い鉄道事業に乗り出したのだろう。 まず、京都府側から山に向かうレールが敷かれていく。一九二五(大正十四)年に現在の叡山電鉄叡山本線の出町柳〜八瀬(現・八瀬比叡山口)間、叡山ケーブルの西塔橋(現・ケーブル八瀬)〜四明ヶ嶽(現・ケーブル比叡)間が開業している。 次に、滋賀県側から一九二七(昭和二)年に現在の京阪石山坂本線が坂本(現・坂本比叡山口)まで延伸され、ほぼ同じくして坂本ケーブルの坂本(現・ケーブル坂本)〜叡山中堂(現・ケーブル延暦寺)間が開業している。 翌一九二八(昭和三)年、現在の叡山ロープウェイが開業。当時は麓側の駅も山頂側の駅も別の位置にあったようだが戦災で休止、一九五六(昭和三十一)年に営業再開したときに現在のルート(ロープ比叡〜比叡山頂間)になった。 叡山電鉄、京都側のケーブルとロープウェイは京福電気鉄道、滋賀側のケーブルは比叡山鉄道が経営していてルーツもそれぞれ微妙に違うが、いまはすべて京阪グループの一員である。 注1 『平家物語』巻第一に「『賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなわぬもの』と、白河院も仰せなりけるとかや」とある。「山法師」が比叡山のことで、当時政治を意のままに動かしていた白河法皇も比叡山の強訴には手を焼いていたという逸話である。 注2 「なんとほくれい」と読む。「南都」は都が平安京に遷されて以降の平城京の呼び名であるが、ここでは興福寺を指す。全盛期は現在の奈良県ほぼ全域が寺領だったという。「北嶺」が比叡山延暦寺。平安京より北にあったことからこう呼ばれた。 |
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