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走れ!バカップル列車 《特別編》
第82号 下津井電鉄の廃線跡をめぐる(前編)



   二

 二○一八年四月二十日金曜日、みつこさんと私は仕事を早々に切り上げて、東京駅17時33分発「ひかり523号」に乗り込んだ。きょうは倉敷へ前乗りである。
 岡山までの長旅にあえて「ひかり」を選んだのは「フルムーン夫婦グリーンパス」で出かけるからだ。フルムーンパスは二人の年齢を足して八十八歳以上の夫婦ならJR線のグリーン車乗り放題という切符だが、東海道・山陽・九州新幹線の「のぞみ」「みずほ」には乗ることができない。仕方なく新大阪までの「ひかり523号」のグリーン券と新大阪から岡山までの「ひかり443号(ひかりレールスター)」の個室指定券を取った。逆にフルムーンパスでなかったら、「ひかりレールスター」の個室にも乗ることはなかったはずで、あながち悪いことばかりではない。
 発車時刻が来た。いよいよバカップル列車の出発である。「ひかり523号」は東京駅を静かに滑りだし、夕暮れ時の大都会を駆け抜ける。隣の線路に山手線の電車が並んだ。
 みつこさんは期待に胸をふくらませながら車窓や車内のあちこちを見渡している。数日前から「あたし、楽しみにしてるんだァ」と何度も繰り返していた。
 こんどの旅はみつこさんにとっても特別な旅だ。ここ三年ほどみつこさんは五十肩に悩まされていた。肩をちょっとでも動かすと激しい痛みが刺す。どの病院に行ってもこれといった治療にはならず、かかりつけの整復院に粘り強く通うしかなかった。私もみつこさんを遠出につき合わせるのをしばらく控えた。この春ごろになって地道な通院がようやく功を奏し、まだ完全とはいかないまでも腕を上げて万歳ができるようになった。身軽な体で出かける旅はひさびさだから、それだけに期待も大きくなるのだろう。
 旅の楽しみといえば食もだいじだ。ただし、きょうの旅程はちょうど食事どきになるので駅弁を買っておいた。
 国鉄のころなら「ひかり」にも食堂車があって、みんなで車窓を楽しみながら食卓を囲むなんてこともできたが、民営化のなせる業か何ごとも利益優先で、減らされた食堂車の代わりに増えたのはグリーン車だった。
 それでも缶ビール片手にやきとりなんかを食べるうちに満腹になり列車はますます速くなる。丹沢の向こうに夕陽が沈み、薄暮の空に浮かぶ富士山を見送った。
 新大阪で乗り換えた列車は、いまや山陽区間では珍しい「ひかり号」である。「ひかり」型の山陽新幹線は日中九州新幹線と直通するから列車名が「さくら」になる。早朝、深夜で博多発着となる列車だけが「ひかり」を名乗るのだ。
 この「ひかり443号」に充てられている「ひかりレールスター」車両は最後尾八号車に四人用個室がある。フルムーンパスなら四人用個室を二人で使えるようになっている。
 蓋を開けてみればこんな夜に個室を使う団体客もなく、四室ある個室のうち残り三室は空室だった。検札に来た車掌さんが「ガラガラなんでゆったり使ってください」と言ってくれたのを良いように受け止め、向かいの空室も自由に使わせてもらった。
 西明石の停車中みつこさんに、
「姫路の駅の手前で姫路城が見えるよ」といったら「えっ! どっちどっち?」と立ち上がろうとする。
「ちがうよ。ここまだ西明石だから」
「ああ、そうか」
 向かいの個室から無事ライトアップされた姫路城を観賞して、「ひかりレールスター」は21時35分、岡山に着いた。
 倉敷まで山陽線の普通列車に乗る。ゆったり座席の新幹線とは打って変わって都会の通勤電車だ。座るどころかドア前のスペースは立席客で混雑していた。金曜の夜。蛍光灯の青白い光に照らされた車内にはどことなくどんよりした空気が漂っている。仕事帰りのサラリーマン、飲み会帰りのOL、塾や部活帰りの高校生たち。おひとり様はスマホいじり、グループはおしゃべり。駅に停まるたびに「またね」「明日の試合、がんばろ!」といった声が聞こえてくる。
 倉敷21時59分着。駅前で酔っ払いたちが騒いでいる。街の一日の終わりとともに前乗りの旅程が終わる。見上げれば、西の空に三日月が沈みかけていた。



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