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走れ!バカップル列車 第75号 カシオペア狂想曲 |
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一 二○一六年三月二十六日、北海道新幹線新青森〜新函館北斗間が開業した。 何十年も前から、この日を心待ちにしていた人たちは多いことだろう。新幹線がはじめて津軽海峡を越え、北海道に到達した。九州から北海道まで新幹線がつながったことは日本の鉄道史を語る上でエポックとなることは間違いない。 その蔭で寝台特急「カシオペア」、急行「はまなす」、特急「スーパー白鳥」「白鳥」が廃止され、青函トンネル区間を含む海峡線の在来線列車はすべて廃止された。日本の鉄道地図から「海峡線」の記載そのものが消えてしまったのである。 北海道新幹線の開業ダイヤが掲載されている「時刻表」四月号巻頭の地図を私はしばらくの間、呆然と見つめてしまった。「海峡線」が消え、代わりに「北海道新幹線」の描かれているのを見れば、どうしても深い感慨に耽ってしまう。 青函トンネルと新幹線。その計画から完成までの経緯は、調べてみるとかなり複雑だ。 津軽海峡を渡るトンネルの構想は戦前からあったという。戦況悪化による中断、戦争終結による構想復活、GHQによる中止命令など、構想・計画は中止と復活を繰り返す。一九五四(昭和二十九)年九月の洞爺丸事故はトンネル建設を急ぐきっかけになった。翌年国鉄は「津軽海峡連絡隧道技術調査委員会」を設置し、工期、工費や線路の規格までかなり具体的に計画を練っている。この時点ではトンネルを通過する鉄道は在来線複線電化で予定されていた。 一九六四(昭和三十九)年五月、吉岡側で調査坑の掘削を開始。これが青函トンネルの実質的着工とされている。洞爺丸事故から十年もの歳月を要したのは東海道新幹線の建設費膨張に悩む国鉄上層部が首を縦に振らなかったからだという。 考えてみれば、青函トンネルが新幹線という存在に翻弄されるのは、いまから五十年以上も前の着工時以来のことかもしれない。 東海道新幹線の成功を受けて、一九七○(昭和四十五)年、全国新幹線鉄道整備法が公布され、以後、新幹線は国の基本計画のもとで建設されることとなる。二年後の一九七二(昭和四十七)年には東北新幹線盛岡〜青森間、北海道新幹線青森〜札幌間が基本計画に組み入れられる。青函トンネルが新幹線規格に変更されるのはその前年の一九七一(昭和四十六)年のことである。貨物輸送用に在来線レールを併設することもこのときに決まっている。その年の秋、本坑が本格着工となった。 ここまでの青函トンネル建設の経緯を見てみると、当初の計画では、「北斗星」も「はまなす」も誕生する余地はなかったということになる。旅客列車は新幹線で走り、併設の在来線を使うのは貨物列車だけだった。つまり、私が衝撃を受けた「時刻表」四月号の鉄道地図は、一九七○年代初頭の計画をそのまま実現したものにほかならない。 ではなぜ青函トンネルは在来線で開業したのか。そこにもまた新幹線が絶妙に絡んでくる。 全国を新幹線がめぐるという整備新幹線の計画は、二度のオイルショック、国鉄の経営問題などの影響で一九八二(昭和五十七)年に凍結されてしまったのである。 新幹線の見通しは立たないままに青函トンネルの建設だけが進んでゆく。トンネルが完成しても新幹線が通らないなら、入口を封鎖するとか、石油備蓄に利用するといった意見も出たそうだ。そうした中で一九八一(昭和五十六)年、青函トンネルを通過する鉄道は新幹線と在来線の三線軌道方式を採用することになり、当面は在来線を通過させ、トンネル前後の津軽線(青森〜中小国間)、江差線(木古内〜函館間)を整備することも合わせて決定した。 一九八五(昭和六十)年三月に青函トンネルの本坑が貫通した。トンネルを通過する海峡線の開業は、JR発足から一年を経た一九八八(昭和六十三)年三月のことである。 整備新幹線は国鉄改革の目途がついた一九八七(昭和六十二)年に計画の見合わせが解除された。 一九九七(平成九)年の北陸新幹線高崎〜長野間を皮切りに、二○○二(平成十四)年に東北新幹線盛岡〜八戸間、二○○四(平成十六)年九州新幹線新八代〜鹿児島中央間、二○一○(平成二十二)年東北新幹線八戸〜新青森間、二○一一(平成二十三)年九州新幹線博多〜新八代間、二○一五(平成二十七)年北陸新幹線長野〜金沢間と、新幹線はまさに開業ラッシュの時代を迎える。 そうした流れの中で北海道新幹線新青森〜新函館北斗間の建設は二○○五年に始まり、ようやくこの春、開業の日を迎えることとなったのである。 北海道新幹線新函館北斗〜札幌間については、小樽経由の北ルートとなることが一九九八(平成十)年に決まっており、建設はすでに二○一二年にはじまっている。開業は二○三○年度末と予定されている。 なんのことはない。寝台特急「北斗星」も、急行「はまなす」も、青函トンネルを通過する在来線旅客列車はどれも、新幹線が通るまでの「つなぎ」だったのである。そう考えればいくらか自分の気も静まる。 一九八八年から二○一六年まで、じつに二十八年間もの歳月が流れている。長い歴史からすればほんの「つなぎ」だったとはいえ、私のこれまでの人生のうち、半分以上を占める時間でもある。その海峡線が一夜にして消え、新幹線になってしまった。そう簡単には割り切れない。理屈でわかってはいても、気持ちがついていけない。 青函連絡船の廃止は寂しかったが、ブルートレインの行先方向幕に「札幌」の文字を見たときの感動はひときわ大きかった。その「北斗星」も昨年八月に廃止されてしまった。 「カシオペア」と「はまなす」が廃止されて、客車で運行される定期列車が消滅してしまった。急行列車もなくなってしまった。上野発の夜行列車が姿を消してしまった。食堂車も時刻表に掲載される列車への連結が全廃されてしまった。たまたま時期が重なっただけのことなのかもしれない。時代遅れのものは淘汰される運命にあったのかもしれない。それにしても、私にとって今回のダイヤ改正は、喜びよりも喪失感のほうがはるかに上回る出来事だった。 |
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