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走れ!バカップル列車
第86号 比叡山



   四

 ロープウェイの駅舎は文化財にはほど遠い無造作なコンクリートの箱だった。比叡山頂からケーブル八瀬まで、ロープウェイとケーブルカーを合わせた連絡乗車券九○○円を二枚買う。どちらも京福電気鉄道の経営だからだろう。
 駅舎内には行列が続いている。比叡山頂駅に着いたのは一五時二五分だったが、二本は見送っただろう。十五分ほど待ってようやく改札口を抜けた。
 クリーム色のゴンドラは瞬く間に満員になり、みつこさんと離ればなれになることはなかったが、周りは三六○度人垣で外の景色はまったく見えない。しかたなくカメラを頭上に持ち上げて当てずっぽうで窓の方を向けてシャッターを切る。液晶画面を覗くと遠くの山々を望む風景が写っていた。
 ロープウェイの全長は四八六メートル。標高差は地形図を見る限りおおよそ一五○メートルほどだ。約三分の乗車でロープ比叡に着いた。「前の男の子がムダに背高くてさァ、ぜんぜん見えなかったよ」とみつこさんがぼやく。
 駅前広場から遠くの山々が見えた。すぐ下は八瀬の街並み、ひと山越えて岩倉の新興住宅街、さらにその向こうは鞍馬の山々だろう。カメラに写っていた景色とだいたい同じだった。
 乗り継ぐ叡山ケーブルのケーブル比叡駅はロープ比叡駅のすぐ向かいにあった。こちらも行列になっている。ケーブルカーといいロープウェイといい、実際の乗車時間はそれほど長くないが、乗換えの徒歩移動や待ち時間がけっこうかかる。わざわざ混んでいる季節に来るのがいけないと言われそうだが、閑散期は本数が少なかったりするから、やはり待ち時間は発生するだろう。サッサと山越えしたいなら、根本中堂など寄らないほうがいい。やはりタモリ倶楽部のあの企画は正解だったのだ。
「あの子だよ」みつこさんが前方を指さす。
「なに?」「ムダに背高い男の子」いやいや、指さしてムダに背が高いとか言っちゃダメだから……と思いながら前を見たら、たしかに異様に背が高い。一九○センチ近くはありそうで周囲から頭ひとつ飛び出ている。ロープウェイでも近くにいたはずだがあまりおぼえていない。彼女らしき女の子を連れてなにやら楽しそうに話している。
 叡山ケーブルの駅舎は文化財でもなく、ただの箱でもなく、昭和初期のモダンな雰囲気を残す建物である。ゆったりした待合室があるが、いまはみんな行列に並んでいるので、休んでいる人はいない。
 行列が進んでようやく乗れるかと思ったら、あと数人というところでチェーンをかけられてしまった。先頭はあのムダに背の高い男の子と彼女だ。さらに数分待って、ようやく改札口が開いた。ロープウェイを降りてからすでに十五分経っている。坂本ケーブルの車輌は角張っていて斬新な雰囲気だが、こちらはクリーム色で丸っこくてレトロな雰囲気の車輌だ。
 すばやく車内に乗り込んだが、いちばん前の特等席はムダに背の高いカップルに占領されてしまった。かろうじてみつこさんが入口のすぐ後ろの席を確保した。その席からじゃ前はなかなか見えなさそうだが、みつこさんはここでいいというので、そのまま座ってもらうことにした。私はムダなカップルのすぐ後ろに立って前方を見る。

 16時04分過ぎ、叡山ケーブルが発車した。満員のケーブルカーがゆっくりと急坂を下ってゆく。鬱蒼とした針葉樹林がそびえ立つ切り通しを抜け、やがて視界が開けてきた。左右は赤や黄色に紅葉した木々になり、傾いてきた秋の日を受けてキラキラ輝いている。
 叡山ケーブルの路線距離は一・三キロとそれほど長くはないが、標高差は五六一メートルあり、ケーブルカーとしては日本最大である。坂本ケーブルよりヨコは七○○メートル短く、タテは逆に七七メートル大きいから、平均勾配はかなり急だ。
 路線の中間地点に来て、上りのケーブルカーとすれ違う。改めて向こうの車輌を見ると前面の二枚窓が顔みたいでなかなかかわいらしい。
 その先も切り通しが続いたり明るい紅葉のトンネルになったり、景色は次々と流れ、16時15分ごろ終点ケーブル八瀬に着いた。バスの整理券みたいなちんけな切符は出口の改札口であっさり回収されてしまった。
 ケーブル八瀬駅を出たところにちょっとした散歩道がある。もみじが夕陽に照らされあまりにきれいで、時間を忘れて眺めたり写真を撮ったりした。
 のんきにふらふらできたのはそこまでだった。鴨川の支流、高野川の橋を渡って三○○メートル離れた叡山電車の駅(八瀬比叡山口)まで来てみると、駅に入れない人の列が見えないところまで続いていた。
「ありゃぁ、これ並ばないと乗れないの?」
「そうみたいだね」
 同じく行列の最後尾を探しているおばはんが「隣の駅まで続いてるんちゃう?」なんて言っている。カギ型に曲がった線路沿いの道の向こうまで続いている。しかたなく行列のうしろに立つ。
 繁忙期だから本数は増やしているだろうが、一両編成の電車が行ったり来たりしているだけだ。いったいいつまで待てばいいのか。暮れつつある空を見ながらイライラする。
 出町柳までタクシーに乗れないか、みつこさんを列に残して、ひとりふらふらと駅入口付近に来てみる。しばらく待つと一台だけ空車が来た。救世主だ。さっそくみつこさんを呼ぼうと電話をかけていたら、すうっと外国人の家族連れが割り込んできてクルマに乗ってしまった。
(ええーっ! そんなァ……)
 ガッカリしたが、タクシーの後ろ姿を眺めながら我に返る。(イカンイカン!)
 危うくバカップル列車の使命を忘れるところだった。わしらは叡山電車に乗って出町柳に行くべきなのだ。あの行列に戻らなければ。むしろ割り込まれてよかった。焦ったところで、ろくなことはない。
 みつこさんの待つ行列に戻る。「けっこう進んでるよ」。並び続けていたみつこさんの感覚を信じよう。意図的に時間を忘れることにして列が進むのをひたすら待つ。
 結局、電車に乗れたのは17時09分。ケーブルを降りてから一時間近く経っていた。
 さて、私の左足。宿に着いて恐る恐る靴下を脱いでみる。「ひぃ!」とみつこさんの小さな悲鳴。薬指が紫色に腫れ上がっていた。
 治るまでどのくらいかかるだろう。痛みは引いたが、見た目がひどい。根本中堂おそるべし。



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