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走れ!バカップル列車 第50号 三陸鉄道復興支援列車 |
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六 宮古にきたら、ぜひ一度訪れたいと思っていたところがある。太平洋に突き出た重茂(おもえ)半島にあって本州最東端のとどヶ崎にほど近い姉吉という小さな集落だ。宮古市街から二十キロ近く離れているが、その姉吉に「此処より下に家を建てるな」という石碑があり、東日本大震災の報道で一躍有名になった。 この石碑の存在は、宮脇俊三の読者ならずいぶん前から知っているはずだ。 『ローカルバスの終点へ』(新潮文庫・一九九一年)の「川代」(かわしろ)にこの石碑のことが書かれている。「川代」の項はたびたび津波の被害にあった重茂半島の様子がよく取材されていて、なかでも宮脇さんの質問に答えた役場出張所の所長さんのセリフが印象的だ。 「津波にやられますとね、浜から高いところへ移るのですが、それでは不便なので、だんだん浜へ下りてくるのです。すると、また津波に見舞われる、それをくりかえしてきたようです」 天災は忘れた頃にやってくる、という言葉を地でいくような話だが、多くの人びとが便利さを求めて海岸に移っても、姉吉の人びとは「此処より下に家を建てるな」という石碑の教えを頑なに守り続け、今回の津波でも被害を最小限に留めた。 その石碑を見ておきたい。今回は、三陸鉄道といい、姉吉の石碑といい、宮脇さんの足跡を辿る旅ともいえそうだ。 朝の散歩からいったんホテルに戻り、コンビニ弁当で朝ごはんを済ませ、十時ちょっと前にチェックアウト。バスの本数は少ないので、重茂半島まではタクシーで行く。 フロントでタクシーを呼んでもらうと、ほどなくして水色と白のツートンカラーのタクシーがやってきた。 「重茂半島の姉吉まで」 というと、運転手は静かにクルマを発車させた。 タクシーは宮古湾に沿って国道45号線を南に下る。宮古湾の向かいに青々と立ちはだかる山々が重茂半島である。海を跨げばすぐのように見えるが、宮古湾は南に深く入り込んでいるので、大回りしなければならない。海上にはやませの霧が立ちこめている。昨日も田老の沖に霧がかかっていた。 「やませは、きょうはまだ良いほうで、酷いと街中までやってきます」 ときどきそういう風に教えてくれるが、きょうの運転手はやけに無口で会話も一問一答みたいになってしまう。 津軽石の交差点で左に曲がり、津軽石川の橋を渡ってここから重茂半島に入る。 河口付近の広場には瓦礫が集められ、すごく高くなった山がいくつもできている。 「ここは運動公園なんです」 運転手が口を開く。市民の憩いの場であるはずの宮古運動公園はいまや瓦礫に占拠されている。 運動公園を抜けると宮古湾沿いに出て、さっきとは逆の北に向かう。 海に面した路肩はところどころ崩れていてガードレールも壊れている。仮の柵みたいなのが設けられているが、ハンドルを誤ったらすぐに突き抜けて海に落ちそうだ。路面は砂利になってるし、海の反対側はいまにも崩れそうな崖が迫る。道幅も狭く、自動車一台がやっと通れるくらいの場所もある。誘導員などいないが対抗車同士うまく譲り合っているので自然と片側交互通行になっている。 右の陸地側はところどころ平地もあって、道路のそばに五、六メートルほどの防潮堤がある。わずかに通路用の穴が開いていて、穴を覗くと壁の向こうに集落が広がっている。 「この防潮堤の向こう側も津波にやられたようです」 ハンドルを右に左に回しながら、運転手がいう。 タクシーは「白浜」の集落で右に曲がり、峠道を登る。鬱蒼とした林の中の道で、白浜峠を越えるとこんどは急な下り坂になる。ある程度下ると山が開けわずかな平地が広がり集落がある。「館」という重茂地区の中心集落で、標高約八十メートルの土地に漁協や郵便局、学校などがある。坂を下ると「里」という集落だが、こちらは海に近いため平地はことごとく津波に流されている。津波のあとに建てられた金属製の電柱だけがやけにぴかぴか輝いている。橋も流され、仮橋を渡る。 再び登り坂になり、とどヶ先のつけ根部分を越える。辺りはまっすぐ伸びるアカマツの林で、その中に忽然と緑にペイントされた小屋が現れた。なんだろうと思ってみたら、ちょうど姉吉バス停の待合室だった。 「こんなところでバス待ちたくないね」 みつこさんが笑う。たしかに昼でさえ薄暗い林の小屋でひとりバスを待つのは心細い。 姉吉バス停のT字路を左に曲がり、坂を下ると家が見えてくる。ここが姉吉の集落で、家が十一軒、三十人ほどの小さな集落だ。姉吉集落を抜け林を百メートルほど下ったところでタクシーは停まった。 「これです」 運転手が道の左の石碑を指さした。クルマから降りて見上げる。自然石を使った高さ約一・五メートル、幅五、六十センチほどの石碑で、この石碑そのものも道路から一・五メートルほどのところに立っている。 宮脇さんの本に紹介されていた文字がたしかに刻まれている。 「大津浪記念碑 高き住居は 児孫に和楽 想へ惨禍の 大津浪 此処より下に 家を建てるな 明治二十九年にも 昭和八年にも津 浪は此処まで来て 部落は全滅し生 存者僅かに前に二人 後に四人のみ幾歳 経るとも要心あれ」 |
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